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ペットのアゲハの 盆栽展


 
盆栽写真
冨士ぶなです。


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冨士ぶなが立派です。


鉢植えの大きさを考えるとき、いろいろな問題が登場してくる。
また、この問題は人によって考え方が違うから、これを一様に押しつけることはできない。
この間題を考える時、まず、それを強調する人たちの三目い分と、客観的にみたその内容を分析してみよう。
①鉢植えは、素晴らしい老樹・古木の姿や自然の優れた風景を盆上に再現するものだという。
この「定義」は絶対かどうかは別として、ほぼ絶対に近く正しいと思う。
もし、このとおりであるとすれば、正しく表現しうる限り、鉢植えは大きいことを必要とせず、自由に持ち運びできる範囲のものが良いと思う。
②しかし、小さいボンサイの中に「大自然」を表現する。
これこそ鉢植えの「極意」であるという考え方もある。
これが表現されたもの、そしてこれを強調したもの、それが「小鉢植え」であり「豆鉢植え」であると思う。
③一方、鉢植えの技術には限界がある。
例えば、ある素噌らしい老樹・古木があったとする。
その姿を盆上に再現するとき、全体の大きさはm分91、あるいはum分のーに縮小できて も、葉の大きさや花の大きさ、さらには実の大きさは、その割合に縮小することはまず無理である。
こう考えると、本当に「自然を再現」するのだったら、鉢植えがある程.度の大きさを持つことは止むを得ないと三目える。
この考え方も間違ってはいないと試う。
④ある程度の数の鉢植えを持ち、その質が一定水準を越えたとき、人はこれを他人に見せて「誇らしげ」な気持ちを持つようになる。
これは、当人が意識すると否とにかかわらず、多少なり存在することは否定できない。
その現われが国風展であり、サツキの全国展である。

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